酒呑童子

2019年の文フリに出したやつです

 

 これは一人の女性にまつわる物語である。ある時、ふと私の前に現れた彼女との威風堂々の記憶をここに綴るのであり、その生態の解明に至る私なりの標べとなる記録である。この読者諸君におかれては、彼女の艶麗さと私の間抜けっぷりをじっくりと味わっていただくがよろしかろう。



 硬く冷ややかな世田谷の空気を窓から取り入れ、私は最寄りの骨董屋より輸入した人参色のソファーに腰掛けていた。それは如何にも「骨董である」といったデザインで、座り心地はイマイチだったが買い求めやすい値段だった。

 でーんと座っていたある日の朝、膝の裏に何者かの存在を感じた。存在は単体ではなく集合らしかった。ズボンのすそから這い上がる小さな軍勢。立ち上がり、退いてみるならば身の毛もよだつ光景。ソファーの内部から布の隙間を窓口として大量の羽蟻が漏れ出している。

 足元に置いてあったペットボトルを掴み取り、茶を彼らに向かって破茶滅茶に振りかけるがその結果は虚しい。裾には茶色の飛沫が、それとその匂いだけが。落ち着き払い、彼らを落としてしまわぬよう玄関まですり足で移動する。細心の注意を払いながら仰向けに寝転がり、ベルトを外し、ズボンを慎重に脱ぎ下ろして玄関の外に放り投げた。

「まったく、忌々しい。呪いのソファーか!?あれは」と、足早に廊下を戻り、ソファーを見やれば彼らの姿はなし。影も形も残さず、何事もなかったかの様な顔をした人参色のソファーがでんっとそこに置かれているのみであった。羽蟻の影などどこにもない。一応確認までとソファーをひっくり返して布張りの底を押したり、臭いを嗅いでみたりするもののおかしな所は全くない。

 なんとも奇怪な現象に遭遇した私の表情はみるみるうちに真っ青になり、怯えた魚のように口が閉じなくなってしまった。

 私はその場にへたり込んだ。「一体全体なんだというのだ。羽蟻の祟りか?」

 その昔、童心ゆえの悪戯で火を放った蟻の巣や思い当たる限りの虫いじめを数えてみるが、心優しい私にそのような記憶はやはり皆無であった。

 

 よりにもよって大量の虫が群がる幻覚に遭遇しては今日の夜は気持ちよく眠れないだろう。このような場合は酒で有耶無耶にして忘れ去る方が良いかもしれん......。私は近所に住む馴染みの友人を誘い、酒の供になってもらうことにした。

 ちなみにその友人の名は「米津」といい、残り半年と少しで十年の付き合いとなる旧知の間柄である。彼は大学時代に関わっていた演劇研究会のメンバーの中で一つ後輩に当たり(肝心のサークルにはお互い殆ど顔を出さなかった)、無類の飲兵衛である。歓迎コンパでそれなりに好きな劇作家が噛み合ったことで親しくなり、住居が近いため卒業した現在でも頻繁に連絡を取り合っている。

 

「先輩にしては珍しく嘘をフカすなあ。まあとりあえず酒だ。万華鏡に行くとするか」

 ある程度完成期に近づいた下北沢駅の東口を抜け、一番商店街を代沢方面に歩いてゆくと、純喫茶らしき赤い建物が見える。そこが我々馴染みの老舗酒場、「万華鏡」である。赤絨毯を敷き詰めシャンデリを吊るし、四十畳ほどのスペースに炬燵を並べた鍋料理屋。とにかくぬくぬくとした酒場なのである。

 当時バブルの乱痴気に乗ったマスターの秋松氏曰く、道楽の極みを見せつけてやりたかったのだという。今では大学生や観光客で賑わう治外法権の下北沢でも地元民で占められた数少ない安息所となっている。秋松氏も七十に近い高齢にも関わらず、私がこの街に住み始めてから万華鏡が休業しているのは一度たりとも見たことがない。

 炬燵に入りしばらくすると、「あちーあちー」と言いながら秋松氏が煮え立つ古びた鉄鍋とキンキンに冷えた瓶ビールを運んできた。鍋にはS字形のしきりがあり、スープが紅白に分かれている。脳天を突き抜ける刺激臭の中で、得体の知れない色をしたきのこや謎の肉が地獄の釜の如く煮えたぎっていた。

「さあ待ちに待った火鍋の時間だぞ。どっさり味わえよ」

 

 二人の間においては、駆けつけ一杯目の生ビールをグイッと一息に飲み干すのが常であり、その後にゆっくりと具を頬張る。会話は常に二杯目を注文した時から始まるのである。

「確かに見た、ソファに空いた穴から羽蟻がドンドン湧いてきてな、足に群がっていったんだ。すごい数だった。幻覚と見間違えるはずもない。」

 あの時の羽蟻が足を伝い登り迫る確かな感触。それはもう気色の悪い出来事であったのだが、それを上回る不安はただ一つ、玄関でズボンを脱いで部屋に戻った頃には奴らが忽然と姿を消していたことだ。

「先輩、そうやってくだらない妄想に耽ってると心と体に毒だぜ」

 米津は薄笑いを浮かべながら嫌味っぽく答える。こいつ、完全に嘘だと思ってるのが顔に出ている。

「失敬な、私は朝からずっとシラフだったんだぞ。」

「買ったばかりの骨董品のソファに腰を下ろして優雅な読書時間を過ごしたかっただけなのになあ」

 ただの幻覚であればどれだけ喜ばしいことか。次からあのソファには怖くて腰を下ろせないではないか。「ふうん、奇妙なこともあるのだなあ」と米津はもう興味を失ってしまったようであった。全く、人の悩みに対して本当に薄情な奴である。

 米津との付き合いはそれなりに長い。他人に話せば赤裸々も免れぬという話題も、お互いにほぼ全て話尽くしている、と私は一人勝手に考えている。故に二人で飲みにきたとしても近況報告は30分もかからない。何が楽しくてこいつを誘っているのか、時々わからなくなる時がある。

 

 そんなことに頭を巡らせていると、秋松氏が興味深い話題を振った。

「お前達はもう耳にしたか?この街に酒呑童子が引っ越してきたそうな」秋松氏は店の隅の籐椅子に腰掛けたまま薄笑いを浮かべて言った。

酒呑童子!妖怪ですな!」

「下北沢居酒屋界隈ではその妖怪について噂になっていてな」

 氏の言う下北沢居酒屋界隈という表現がなんなのかは知らぬが、噂によると一ヶ月程前から街のあらゆる酒場に出没するようになった、とある女性のことであった。何故にたかだか一般客の存在が話題になるのか。そういえば、私も居酒屋客がそのような件について会話しているのを盗み聞きしたことがあったようななかったような。

「妖怪と呼ぶのはあまりにも失礼なんじゃないですか......見た目のことをいっているのであれば。ですけど......」

 そうではない、と秋松氏。「名は緋月という美しい女性じゃ」

 秋松氏の言う所の、妖怪というニュアンスをうまく飲み込めないまま彼は話を続けた。

「まあまあ、妖怪というのはあくまで例え話ということで......。その緋月という方はな。真紅の袴姿。腰になぜか脇差、街のあらゆる酒場に現れてはとんでもない量の酒を呷り、一人帰ってゆく。故にこの下北沢居酒屋界隈では酒呑童子と呼ばれているそうでな」

 酒場の店長ともあろう人間が、しかも本人の見聞きせぬ場所にあって、客を渾名で呼ぶのは失礼な気がしなくもないが。

「感心しませんなあ。酒呑童子なんて化け物じみた表現で女性を形容しようなんて。人生の先輩に言うのは気が引けますが、感心しませんなあ」と米津が秋松氏に否定的な態度を示す。が、大いに興味を惹かれていて「俺にその女を紹介しろ」と言わんばかりの表情をしている。獲物を狙う猟犬のような風合いとなっている。

「まあまあ。妖怪と言うのはあくまで大酒飲みだから、というだけではないのだ。緋月が下北沢界隈に現れてからというもの、商店街の居酒屋から選りすぐりの日本酒が忽然と空になっていくのだと」

 開店時間中、誰も注文していないにも関わらず、気づいた時には瓶の中が空っぽになっている。それも一つの居酒屋だけの出来事ではないと秋松氏は絶対的な真実であるかのように語った。下北沢北口商店街の居酒屋界隈、しかもほぼ常連客しか好まないような老舗の大衆酒場に限られた事件であるという。氏は話を続けた。

「この万華鏡でも若い従業員の一人が、開店時間中に銘酒、土佐鶴が突然からっぽに事件に遭遇したと話しておってな」

「ふうん......そんなのがこの辺りにいるとなると、それは有名にもなるでしょうなあ」

「そして、緋月が越してきてからというものの、身の毛もよだつような怪奇が起きているとかいないとか......」令和の時代に物珍しいことをいう男だなと思った。

「もしや君の羽蟻事件もその酒呑童子が関係しているのではないかなあ、と思った次第なのだが」

「つまり一連の出来事は酒呑童子、その緋月とかいう女が原因だと、みんな疑っているということですか」

「ふうん、中々面白い話じゃないか」米津が何となく楽しそうだ。

 

「どうだ、俺たちでこの後他の居酒屋に聞き込みにいこうじゃないか。もしかすると、面白いことになるかもしれん」

 飲酒を長引かせたい口実にしか聞こえないのだが、まあいいだろう。

 怪異の責任を新参者に押し付けているというのはこの街に暮す住民としてあまり気持ちがよろしくない。だがしかし、彼女が現れてから街が俄かに騒がしいのもまた事実。庭の植物は枯れ、隣の家の番犬の気性が荒くなり、目を話した隙にどんぶりが空になっていたという話もちらほら耳にしていた。

「よし、いいだろう。この一杯を飲んだら次の店に聞きこみだ」そう言って俺たちはまたもグイッと酒を飲み干した。

 

 次なる店はこの下北沢でも由緒正しい部類にはいる鉄板焼き居酒屋、五郎丸の店主からであった。

「身長はかなりあったなあ。一時間位か、そんなに長居はしていなかったんだが日本酒を二合近く一人で飲んでいてなあ」

「その女性に怪しいところは?」コイツは本当に人の悪い方向に落とし込もうとするのだなあ。

「いやあ、特にそんなところはないさあ。ずっと一人で物静かに飲んでいてよ。若い人にしては珍しいもんで携帯を覗くことも殆どなかったよ」

「怪しいところなど、特には思いつかんな」

 ふうむ、と米津は相槌を打つ。

 緋月さんに関する手がかりをロクに得られないまま二軒目、三軒目と聞き込みという名目の元、はしごを続けてしまった。無論我々は本来の目的を見失った末、許容限界までの酒を飲むだけの酔っ払いと化していた。

「聞き込みをするためだけにこの一杯を味わうのだ!」その意思は儚くも街に散った。米津と私は、回らぬ呂律で店主に礼を伝え、千鳥足で互いにもつれ合いながら店を後にした。

 

 そして再び気が付いた時、私は全く見覚えのない天井を見上げていた。

 前もって読者諸氏にはお伝えしておくが、やましい出来事などは全く以ってありえない。しかしこの日を界に、物語は急展開を見せる。さて、ここからが本題。

 

 あの時、眠っていた私の頬に氷のような冷たい手が添えられ反射的に目を冷ましたのであるが、まず全く見知らぬ天井。不思議に思う間もなく、私が寝ている隣にぐっすりと寝息を立てる、黒髪の大変美しい女性がいらっしゃることに気が付いた。「エーッ」と叫び、飛び起きたところで彼女も目を覚ます。

「あら......おはようございます、初めましてですかね」と彼女は言った。

 購入した覚えのない花柄の敷布団に、この上なく上品で淡い線香の香り。どうやら、というか明らかに私の自宅ではない。ここで私は直感的に悟ったのだが、この女性は間違いなく緋月さんであって、ここは彼女の自室に相違ないであろう。

「ご気分は如何ですか。そうだ、まだ伺っておりません。お名前はなんとおっしゃるんでしょうか」なんと堂々としている方だろうか。顔も名前も知らぬ見ず知らずの男が部屋に上がり込み、しかも隣で寝ていたというのに。

「私は小林と申しますが、それよりもここはどこなのでしょうか?一体どうしてこんなところで私は寝ているのですか!いやそれよりも......、ここに至るまでの経緯を全く理解できておりません。どうやら大変なご迷惑をおかけしてしまったようで......」見知らぬ女性の部屋で図々しく昼まで寝てしまい、今は過ちは犯していないかが心配である。

「あら、飲みすぎてしまったようですね。昨晩の出来事は全く覚えていないのですか?」

「昨日の出来事......友人の、米津という者と飲んでいたことまでは覚えています。いくつか店を梯子したことまでは」

 欠けてしまった記憶を丁寧に辿ろうとしたが、未だに酔って気持ちが悪いことこの上ない。この有様では緋月さんの隣にいた私は大変臭かったであろう。このようなお美しい女性とせっかくお近づきになれたというのに、最悪の初対面ではないか。

 緋月さんは寝起きの麗しい目をじいっと私に向けた。「私の家の前でお二人とも倒れていたんですよ。いや、寝ていただけと言うべきなのでしょうけど。」

 うう、なんと恐ろしい。今まで米津と幾度となく記憶を失うまで飲み明かすことはあったが、二人共揃いに揃ってダメになることはなかったのに。

 私を救出して頂いた。それは大変ありがたい。しかし何故に、どうして同じ床で寝ていたのか、小心者の私には怖くて聞くことができなかった。

「お恥ずかしい限りですが、この部屋まで辿りついた記憶が全くありません......。米津も緋月さんの家に運び込まれたのですか?」

「もう一人の方は路上で目を醒ましました。ですが私の顔を見るなり、走りだして何処かに逃げ出してしまいました。流石に一人だけ家の前に寝かせておくのも気分がよくなかったのでここに運び込んだんです」私一人だけか。一層不安になってきた。

「そうでしたか、友人が無礼な振る舞いをしてしまい申し訳ない。彼も酒を飲んで気が動転していたからだと思いますが、私からも詫びさせてください」

「いえいえ、酒に失敗など誰しも付きものです。そのなった時は、助け合いです。」と、緋月さん優しく微笑んでくれた。なんと寛大な心か。

「どうでしょう、とりあえず昼食でも如何ですか。しじみのお味噌汁とお粥をつくってあるので。お口に合えばですけど」

 そう言うと緋月さんは花火柄のキュートなエプロンを巻き、台所へ。お粥と味噌汁に加えてちょっとした和え物も添えてくださるようだ。なんたる優しさか。

 

 十五分ほど。北欧風の食器に盛りつけられた料理が運ばれてきた。

 酸味のある和風サラダ、濃厚な味噌汁。特に秀逸はごま油と生姜をふんだんに刻んだ粥である。それらは二日酔いの脳を完璧に目覚めさせた。酒で麻痺した舌が覚醒するほどの美味。

「なんて美味しいお粥なんだ。こんな風味、味わったことがない」

「嬉しいです。私もお酒が好きなんです。だから胃腸を優しく休めるためによく料理するんです」フフッとはにかむ顔は大変見応えがある。

 デザートです。と、シフォンケーキなどご馳走になっている間に既に時刻は十五時である。あまりにも長居しすぎてしまった。

「本当にご迷惑をおかけしました。ご飯にケーキまで頂いてしまって......。そろそろ失礼しなければ」

「ではお見送りしましょう」

 緋月さんの部屋を出てみると、なんと私の家から歩いて五分足らずの距離ではないか。神秘的な世界は意外と身近にあるのかもしれない、などと大それたことを言う輩を見たことがあるが、大いに納得である。嬉しい。

「そういえば、この街には以前からお住まいになっていたのですか?」

「いえ、まあ仕事の都合でして......。この街は諸々具合が良さそうでしたので......」

個人的領域にズケズケと初対面の男が踏み込むのはよろしくない。そう思ったのでこれ以上掘り下げるのはやめにした。なんとも不思議な縁があるものである。

 

 そして私が緋月さんの家にお邪魔してから十日後、事件は起こった。

 下北沢南口商店街にある老舗串カツ屋、「蝦蟇油」の店主、浮岳さんが誘拐されたのである。

 蝦蟇油の浮岳さんは万華鏡の秋松氏と同世代の人物である。下北沢の古き良き時代を共にした屈強な料理人であって、つまりは豪傑、特別大きな台風でも来ない限り休むことなく営業を続けていた。にも関わらず、夜十時を回っても一向に暖簾がかかる気配がない。不審に思った常連客が裏口から店に入ってみると、酒の類の一切が棚から消えていた。そしてなんとカウンターには、

 

酒呑童子と申します。まずは蝦蟇油から預からせていただきましたが、次回は万華鏡。対策しても無駄ですよ」

と、達筆の封書が残されていたという。

 

 具合の悪いことに事件当日の夕方、蝦蟇油の裏口あたりを徘徊する緋月さんが目撃されていた。蝦蟇油の常連客からの連絡を受け、私と米津が駆けつけた頃には既に警察の実況見分が始まっており、店の中の様子を覗くことは叶わずであった。

 どうしようもないなあと言いつつ、警察によって封鎖された店の前で我々は立ちすくんでいた。

「なあ米津。どうにも私には、彼女がこの事件の犯人だとは思えん。あの善良で思いやりのある緋月さんがこのような事を起こすとは到底考えられんよ」

「だがあの日彼女を目撃したという証言はかなり多いのもまた事実だ。彼女の他にも怪しい長髪の男がうろついていたと言う証言もあるしな。もしかするとグルかもしれんだろう」とはいったものの、と前置きした米津。

「俺も彼女を疑うのは早計だと思う。手ぶらでうろついていたという報告がありながら、浮岳さんも酒もなくなっているのはおかしな話じゃあないか。」

「米津、私たちでこの事件の真相を突き止めてみようじゃないか?」米津という男は揉め事を好む。まずは段取りから決めねばと手近な店で酒を飲みながら打ち合わることになった。話が早い男で助かる性格であることだけが救いだ。

 駅の北口に広がる老舗立ち飲み居酒屋は基本的に一見さんお断りの場合が多い。無論我々もこの界隈では常連と言っても差し支えないので、悠々と暖簾をくぐることができるわけであるが。既にこの辺りの界隈では件の誘拐話で持ちきりだった。

「やあ小林ちゃん、米津ちゃん。聞いたか?浮岳さんが誘拐ちまったそうじゃないか。で、どうも犯人はあの酒呑童子って話なんだろ?」

「話が早いですねえ。まあまあ、そうやって証拠も見つかっていないのに決めつけるのはよくないと思いますよ」米津が言った。

「何言ってやがる。俺はなあ、蝦蟇油の裏口の窓を不自然に覗き込んでいる酒呑童子を見たんだよ。どでかい手提げをぶら下げてな。きっとあれに盗んだ酒を積み込んでるに違いないぞ」

 憶測のみで彼女を語るとは。「こんちくしょうめ」と小声で言い、私は無意識に拳を硬く握りしめたが、ここで無用な争いを生むと一層緋月さんの評判に傷がつきかねない。しかし己のあまりの無能ぶりには心がギュッと締め付けられるようだ。

 米津に「もうここから出よう」とだけいい、焼酎一杯分の金を置き店を出た。後ろから米津が付いてくる。心中察しているのか、あえて無言である。私だけは潔白を信じきっており、そして彼女に対する皆の疑念を晴らすことだけを考えていた。いつの間にか足が万華鏡へ自然と向いていた。すると南口商店街の王将の前を横切っていく緋月さんがいるではないか。今こそ思いきって声をかけなければ、もはや彼女を助ける機会は二度とやってこないだろう。私は小走りで追いかけ声を振り絞ろうとするが、なんと彼女は万華鏡へまっすぐに向かっていくではないか。

 緋月さんの後ろを歩く私、さらにその後ろを歩く米津が走り出し、緋月さんの名前を呼ぶ寸前であった私の肩をガッと掴んだ。「おいまて!いまがチャンスだ。緋月さんが酒呑童子なのか見極めるぞ!」

 まだ日は落ち欠けたところで、万華鏡はおそらく料理の仕込みをしている頃合いであろう。我々は無言で緋月さんの後をつけた。万華鏡の入り口は丁度代沢の三叉路から世田谷代田に抜ける道に面しているため、比較的人通りは少ない。誰の目にも触れないまま緋月さんはまっすぐに裏口に向かって行き、それを我々が三十メートルほどの距離を維持しながら尾行していた。店の暖簾はまだ掛けられておらず店内も薄暗い。「よし、窓から中を覗くぞ」米津が先に走り出し表通りから中を覗き込んだ。「おいまて」と私も駆け足で米津と頬をくっつけながら覗き込み形となり、大変みっともない絵面が完成してしまった。

 

 店内には秋松氏一人しかおらず、せっせと仕込みに勤しんでいる。汗びっしょりになりながらグツグツと煮え立つ大釜に大量の唐辛子を混ぜ込み、巨大なヘラでかき混ぜている真っ最中である。

 秋松氏の作業がひと段落しお気に入りの籐椅子に腰掛けようとしたその時、店内の明かりが突然爆ぜ、完全な暗闇になった。「おい、見ろ!何かいるぞ!」万華鏡自慢のシャンデリアが破壊され何も見えないはずであるのに、ゴウゴウと燃え上がる何かが店の中を照らし出した。燃え上がる、無数の真っ赤な林檎のようなヒトダマが、縦横無尽に店内を高速で浮遊しているではないか!「化け物だ、俺たちは今化け物を目撃している!」

 数あるヒトダマのうち半数は店内を飛び回り逃げ回る秋松氏を追い回している。そして、もう半分は棚に並んだ酒瓶の前を品定めするように浮遊している。そのまま万華鏡一の名酒、「北雪 大吟醸」の前でヒトダマは巨大化を始め、その懐に酒瓶を吸収していった。

 しかしその時である。裏口を勢いよく蹴破る音が鳴り、顔を頬を真っ赤にした緋月さんが猛烈な速さで突入していくではないか!

 赤い袴姿にのまま炬燵に足を引っ掛けて転びかけながらも、一目散に秋松氏の元へ目がけ走り抜けていく。「まさかあのまま誘拐する気か?」米津がそう発した瞬間、緋月さんは脇差を抜刀しヒトダマ共を稲妻の如く一瞬で斬り伏せた。

 一体あの人は何者なんだ。しかしどうやら誘拐と酒の強奪は目的ではないらしい。緋月さんは瞬時に酒瓶の前のヒトダマ達を切り捨てた。万華鏡の中は静寂だけが残され、失神した秋松氏と煮え立つ大鍋だけを残し、緋月さんはその黒く長い髪の毛を靡かせ颯爽と店を出てゆく。

「彼女に話を聞くぞ」

 おい、あまりにも急すぎるだろうという私の声を無視し、米津は裏口から出てくる緋月さんの前に立ち塞がった。

「なあ、あんた一体何者なんだ?」米津が単刀直入な質問を緋月さんにぶつけた。彼女、どうやらかなり酒が回っているようであるが、相も変わらず凛とした面持ちである。

「今の始終、お二人揃ってご覧になっていましたね」

 彼女の頬はほんのり赤く、かなり酔っ払っているように見受けられるが、今にも飛びかからんとする山猫のような目つきをしている。しかも袴姿に帯刀しているわけで、切りつけられやしまいと慄然としてしまった。

「あんたが蝦蟇油の浮岳さんを誘拐した酒呑童子って妖怪なんじゃないのか?」

「おい、米津ちょっと言葉が過ぎるぞ。緋月さんは明らかに秋松氏を守っていたではないか」私が叱責すると緋月さんがそれを手で静止して言った。

「疑われても無理ないでしょうね。この街の酒場に関わる人間、諸々の方に疑われていることも存じていますけれど」

「先ほどのヒトダマのような物体はなんなのです。あの奇怪な現象、一体全体何者の仕業なんですか」

 先ほどの現場において誰が正義に立ち回ったか悪漢として振る舞ったか、超自然的な現象を目の当たりした後では正しく見極めることなど到底不可能であった。彼女にさらに詰め寄ろうとする米津を止めることも諦め、私は大きく息を吸い込み空を見上げた。

 下北沢の通りも人が増えてきたなあ、と極めて意味のないことを考え出した時、緋月さんが「貴様ッ!今回は逃がさんぞッ」と叫びながら商店街の人混みに突っ込んで行くではないか。私の静止を振り切り脇差を鞘ごと引き抜き、彼女は商店街を疾走していく。私と米津も後を追い視界の先に彼女を捉えたが、さらにその奥、緋月さんの前方をヒトダマの一団が空を駆けているのが見えた。緋月さんはわめき散らし、歩行者にぶつかり時には転ばせ、ヒトダマ共に罵声を浴びせながら後を追っていった。我々は日頃の不摂生と運動不足により彼女と我々の距離は開いていく一方である。しかしなんとか商店街を抜けた先、古い雑居ビルを駆け上っていくのが見えた。

 やっとのことで屋上まで辿りついたが、そこには燃え盛るヒトダマは一つもなく、いるのは緋月さんただ一人であった。

「なんでいきなり走ったりするんです」

「せ、説明を......してもらいましょうか、ゼエゼエ」既に米津は過呼吸寸前であるが声を絞り出し、力尽き、その場に倒れ込んだ。緋月さんは落ち着いた様子で柵にもたれかかり、一度屋上から下北沢の商店街を見下ろして逡巡した。

「あれこそ、あなた方の言う所の酒呑童子と呼ばれる者。酒場を荒らし、酒を盗む我々飲兵衛の平穏を脅かす物の怪です」

「では蝦蟇油の誘拐事件も、今の万華鏡での出来事も、あなたの仕業ではないということですか。緋月さん、何故あなたはその酒呑童子とかいう妖怪が現れては酒を盗んでいくことを知っているのですか」

 彼女は諦めたように語った。

「私は日本酒造協会から派遣されてここに住んでいるのです」

「酒造協会の理念は、醸造業の進歩発展に資すること、されています。しかしそれはあくまで表向きのもの。真なるその目的は酒を嗜む者を脅かす不届きものを取り締まることなのです」まあいうなれば狩人とかハンターとかそんなところでしょうね。

 なるほど、確かにナントカ協会と冠する団体は数知れないが。だがしかし、その活動実態など曖昧そのもので具体的な内容などただの一つも聞いたことがない。建前らしい言説の裏には、必ず秘匿すべき事項がある。

酒呑童子とは協会がそれはそれは大昔から争っている魔の一族なのです。古い酒場のある街に現れ先の事件のような騒ぎを起こして、高級な酒を独り占めしようとする悪党」

「つまり緋月さんのような狩人は酒造協会に他にもいて、その一族を相手に日々闘っているということなのですか?」

「はい、その通りです。酒飲みが多い下北沢。きっと今どこかに先ほどのヒトダマを操っている酒呑童子が隠れている。だから私はこの街に腰を下ろし、日々酒場に通い奴らの影を追っていたというわけです」

 なるほど、そうと聞いては俺たちも黙ってはいられないよなと、息も絶え絶えにながら米津が立ち上がった。「小林、俺たちも手を貸すぞ」

 喧騒と平穏を兼ね備える最高の街、我々はここに一致団結を誓った。酒呑童子から守るために立ち上がるのだ。酒をタダで盗み出す輩は人であろうと妖怪であろうと容赦せぬ。その決意の元、我々は行動を開始した。

 

酒呑童子はヒトダマを操り、街に怪奇をもたらしてはお気に入りの酒を盗んでいくのです」

 酒呑童子と酒造協会の争いにおいては平安時代から暇がない。繰り広げられ続ける果てのないイタチごっこである。

 酒飲みは羞恥も失態も武勇伝の如く語るが、真の強者は酒呑童子と血みどろの争いを繰り広げている酒造協会のハンター達なのであった。彼等、または彼女等も一流の酒飲みであり、それは狩人となるための最重要資質だ。

 緋月さん、米津、私は再び万華鏡に集まり煉獄の沼のような鍋を前にして炬燵を囲んでいた。前回の店での騒動をすんでのところで防ぐことができたこともあり、心ゆくまでタダ鍋を振舞ってもらっていた。

酒呑童子に我々を警戒させないためにはへべれけになるまで酔わねばなりません」既に日本酒を二合近く飲み干している緋月さんの滑舌は全くといっていいほど平常と変わらない。例の妖怪を捕まえるためにの飲酒は致し方のないことなのか?

決して本来の目的を忘れてはならない......。

「次、奴はどこに現れるのでしょうか」

「さあ、それはわかりません」

「わからない?どうして」

「私たちが死ぬほど飲んでいれば向こうから勝手にやってきますよ」

「そういうものなんですか?」

 そういうものなんです。緋月さんは三合目の日本酒をお猪口に注ぎ、それを一口でクイッと飲み干した。私は米津ほど酒が強くないため、既に意識はどんよりと白濁してきていた。一方私よりタフだと言える米津でさえも緋月さんの尋常ならざるペースには全くついていけていない。

「さあさあ、お二人共。もっと飲まねば酒呑童子はやってきませんよ」

 酒呑童子は酒の匂いが濃厚な場所を襲ってくるとのことである。そのためには奴が特に好む高級な日本酒をしこたま飲み続け、アルコールの純度を極限まで高めた熱い熱〜い吐息を吐かねばならない。故にこの酒呑童子を成敗する仕事は稀有な飲兵衛にしか務まらないのである。

「ところで......酒呑童子を上手く呼び寄せたとして、どうやってそいつを捕まえるんです?」

「奴はヒトダマを操って酒を盗み出しますから、ヒトダマが戻っていく道を辿ればいいわけです」

 だからこの前緋月さんは米津からの詰問を遮って突然走りだしたというわけである。確かに、下北沢の商店街は人通りが多いとはいえ余りにも歩行者に接触しすぎていた。狩人とは恐ろしく危険な仕事である。

 

 初めに盃を傾けてから二時間が経過し、意外にも米津の方が先に潰れてしまった。「俺にもプライドがある」と言いつつ緋月さんのペースに食らいついたのはいいものの、三合目を飲み終えたところでプツッと糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。一方で彼女はというと、相も変わらずペースを乱さず四合目を空にしようとしているが、飲み続けるコツを聞くと「小手先の飲み方にこだわらないこと」であるという。

 

 酒の肴は緋月さんの身の上話まで及んだ。前回彼女の自宅に意図せず招かれた際、この街に来た真なる目的が明かされなかったために濁されていたことも、酔いの潤滑によって饒舌に語られた。

 まず、彼女は特に頼るべき身寄りを幼少期に失ってしまっていること。酒類卸を営んでいた両親を不運にも酒呑童子によって連れ去られてしまい、未だ帰らずじまいとなっているという。復讐であろうか。そのような境遇に置かれた子供達は酒造協会の元に集められ、彼奴らと戦う術を身につけることになる。それも飲酒という文化が生まれると同時に生じた「ならわし」であるという。

 そのような経緯で、彼女は狩人として、あらゆる土地を転々としながら酒呑童子を追い続けている。「今後も、私の目が黒いうちはそうするでしょう」と。

 ああ、なんと。我々のような人種は日常的にのほほんと大酒を飲み、どうしようもない奴と決めつけられながらも、自分自身はその幸せに満足を覚えているのである。だがしかし、その享受して然るべきと思われた幸福は、実は彼女のようなツワモノが活躍しているが故に許されていたのである。ここはせめてものの礼にと、「ここは私に出させてください」と申し出たが、「経費申請するのでご心配なく」とあっさり断られてしまった。

 

 そうして再び日本酒を煽り続けることになり、私が四合目、緋月さんが六合目に突入しようとした頃、別の炬燵に入った客から悲鳴が上がった。「虫よ!いきなり炬燵から湧いてきたわ!」と飲食店の中で上げるには相応の覚悟がいるようなセリフが飛び出してきた。籐椅子でうたた寝をしていた秋松氏も悲鳴によって飛び上がり、場内はパニックとなった。

「さあ、そろそろ始まるようですね」秋月さんの目が徐々に赤く染まり、興奮か酔いのためかわからぬが、臨戦態勢に入ったのは間違いないようだ。

「おい米津!いい加減に起きろ!と彼の頭を数回に渡り叩いたが起きる気配がない。非常時では仕方あるまいと彼のライターで軽く耳を炙ると「アアッツ」とすんなり起きてくれた。

 そしてその数秒後、店内の明かりが全て消え店の中は全くの暗闇となった。

「小林さん、米津さん。先に外にでてヒトダマのやってくる方向、また逃げていく方向を確認してください」

「緋月さんは?」

「私はここで皆と酒を守るため、残ります」

「お一人で!?危険ではないですか!」

「馬鹿、先輩。俺たちには武器もないんだから死に物狂いでヒトダマ共の後をつけるしかないだろうが。いくぞ」

「では頼みます。外は任せました」

 我々二人は外に出た。まだヒトダマが現れる気配はない。万華鏡の店内では人々が突然の暗闇と何時ぞや踏みつけるかもしれない虫共のためにパニックとなっている。だが、その中で緋月さんただ一人、脇差に手を添え居合の態勢で、威風堂々虎視眈々と敵の訪れを待ち構えていた。

 米津と私はそれぞれ店の裏口と入口にまわり、奴らの襲来を待った。再び窓から中の様子を覗くと緋月さんは先と変わらぬ姿勢、表情を維持している。凛と張り詰めた空気が外に漏れ出してくるようだ。

「でっ、出てきたぞ!ヒトダマだ!」米津は万華鏡の入り口側に待機していたため、商店街から脇道に逸れた場所にいた。比較的人通りも多い場所である。「窓から中に入ったぞ!」 その声とほぼ同じタイミングで、店内はゴウゴウと燃え盛るヒトダマで埋め尽くされた。既に店に残っていた客は嘔吐寸前の米津によって外に誘導された。残るは緋月さん一人であるが彼女はまだ姿勢を変えない。ヒトダマの発する熱気によって店内は陽炎のように歪んだ。熱気は窓を突き抜け、火災報知器の音が激しく鳴った。

 店内を縦横無尽に駆けるヒトダマが集合し竜巻となった瞬間、緋月さんは抜刀した。一閃、ピュウと音が鳴り、ヒトダマ竜巻が散開した。飛散し、生き残りは私が覗き込んでいた窓をバンッと突き破り、酒呑童子の元へ帰ってゆく。

「小林さん!後を追って!」私は即座に向き直り自慢の運動神経を緋月さんに見せつけようとした。が、酒のせいで足が見事にもつれ一メートルも移動することなくその場に倒れ込んだ。

 表から回り込んできた米津に「お前!いい加減にしろ!」と引き上げられ二人、もつれにもつれつつも歩行者を押しのけ転ばせ商店街の一本道を疾走した。

 南口商店街の終点となる箇所から、下北沢駅の東口辺りまで追いかけたところでヒトダマは突如茶沢通り方面へと進路を変えた。ようやく緋月さんが我々に追いついた。

「ヒトダマは何処へ?」

「ここから北東にある大通りです。劇場や役所などに面した通りです」

「急がねば。奴ら、逃げ足だけは早い」と緋月さんは酔いを全く感じさせぬ速度で走り出した。下北沢駅から茶沢通りまではそう遠くはないが、飲食店や雑貨屋などが入り混じり道幅はさほど広くない。なんとか人混みをかき分け、視界のギリギリで奴らがスズナリ横丁の屋上に消えていくのを捉えた。

「奴ら、劇場の方に入っていったぞ」

スズナリ横丁は北沢にある小演劇専門の劇場と酒場を兼ねた施設である。高度経済成長期のごちゃごちゃした風情を残す、迷宮じみた情緒ある建物群だ。

 米津も私も演劇が出自であるためその内部構造には詳しい。建物間の路地や部屋が複雑に入り組んでいるため初見では目的の場所にたどり着くのは難しいが、我々ならば容易い。

「緋月さん、私達にの後についてきてください」

 我々三人は駆け足で「ザ・スズナリ」と書かれた大看板の下を潜り、小さなバーが密集した空間にでた。そこには二階の劇場と上がる階段がある。そこからは屋上に出ることはできないため、一度別の階段を使い、再び一階に降りてスズナリ横丁の裏手にでる。そこに屋上へ上がる階段があるのだ。

「ここから屋上に登れます!」地上から屋上側を見上げると、トタンを被った屋根が揺らめく橙色に染められていた。直接炎を確認することはできないが、飛び散る火の粉は我々に降りかかってくる。「酒呑童子がいる。静かに、急いで上に」

 

 屋上には、全身が真っ赤の皮膚をした巨大なヒョウタンを担いだ少年がいた。全く手入れのされていない不潔そうな長髪であり、彼の周囲を無数のヒトダマが包み、その隙間から細く切れ長の瞳がこちらを睨みつけている。こいつがこの事件の黒幕だ。

「もう逃げられません、大人しく捕まりなさい」

 言葉は通じていなそうだが。赤い少年、酒呑童子は「キーキー」と言葉にならない奇声を上げ、燃え盛るヒトダマをこちらに投げつけてきた。それを緋月さんは一太刀の内に消滅させる。

 ここにきて初めて我々は部外者であると実感した。目の前の超自然的な存在と戦う勇敢な女性に介入することなどできない。米津と私は大人しくあきらめ、屋上の隅っこで離れて待機することにした。

 ここからは彼女の大立ち回りである。迫り来る酒呑童子の攻撃を素晴らしい反射神経で右に左に避けつつ、時には切り落とし、徐々に距離を詰めていく。酒呑童子と緋月さんの距離は三歩分となり勝負が決する寸前、酒呑童子は周囲全てのヒトダマを凝縮し、巨大な火球をぶつけようとした。緋月さんはそれすらも華麗に切り伏せた。そしてどこからか取り出した荒縄を使い、奴の四肢を縛りつけ地面に組み伏せることに成功した。

 懐より大きな巻物を取り出し、勢いよく開く。「封」と書かれた面を上に向け、そこに捉えた酒呑童子を思いっきり押し付けた。すると、ボンッという音と共に二人は白煙に包まれてしまった。煙が晴れた時には酒呑童子の姿は無く、「これにて終了です」と緋月さんは言い、私たちの方へ向かって小さなガッツポーズをしてみせたのだった。

 

「お二人の活躍には本当に助けられました」

 額に大粒の汗を浮かべた緋月さんは微笑み、私と米津の手をがっしりと握りしめた。酒呑童子の炎によって熱に浮かされた下北沢の夜は急速に元の温度を取り戻していった。唯一、上気した三人の頬だけがこれまでの熱気の名残であり、この戦いの証明であった。それは猛烈な酔いの中で見た最も印象深い光景となったのである。

 派手に体を動かしたせいで足取りは確かではないが、なんとかスズナリの屋上を降り、ゆっくりと来た道を引き返すことにした。道すがら自動販売機で水を買い、米津が歩き疲れたと言うので歩道の手すりに腰掛けながら煙草を吸った。まるで久しぶりに顔を合わせた、昔馴染みと一緒にたらふく盃を交わした後のような、しっとりとしたひと時だった。

 

 時刻は二十二時を少し超えた頃。帰るにはまだ早い。

「もう一軒行きましょうか」

 誰かが言った訳でもない。おのずと三人から漏れ出た言葉である。

 この先に美味い串を焼く店があるんですよ。さて、アテとなるツマミも話題も用意できた。再び心ゆくまで飲み直し、今宵も疲れた身体に酒を注ぐとしようか。